2007年08月21日

オーナーとライダー

エストモ」のshmaさんがSRを手放したと聞いてからずっと考えていた。shimaさんのSRのことではなく、オートバイと人との付き合いについてである。
昔から男はオートバイとの付き合いを女性との付き合いに譬えて話すことが多い。そうするとなにかと分かりやすくもあるのだろうが、自分の場合はどうなのか、マジメに考えたことがなかったので考えるよい機会にさせていただいた。

83年の4月からだから、数えると24年と4ヶ月、数ヶ月車検を切らしたこともあるがずっと乗り続けている自分のSRとはどういう出会いだったのか。そしてどのようにして今に至っていて、今後どうなるのか。

オートバイに興味をもちだして最初の頃、初めて美しいと思ったのはXS650Specialだった。78年ごろのことだったと思う。その後免許をとってから「欲しい」と思った最初のオートバイがSRだった。店に並んでいたのは黒の500と赤の400、キャストホイールのモデルだった。80年の秋である。
その後いくつかのオートバイを所有した後、SRが次期モデルでキャストからスポークに変わると聞いて、デザインも見ないうちに注文したのが83年の3月。そう考えるとずっとSRに乗りたいと憧れ続けていたわけでもなく、また現物のSRに一目惚れしたわけでもなく、なんとなくずっと気になっていたオートバイを、あるきっかけが元で手に入れた、ということになるのか。要は事がそういうタイミングで運んだ、ということだろう。

それから24年のあいだ、他に所有したオートバイは何台もある。そのうち3台ほどはいまでも手元にあるが、どれもそれなりの距離を乗ってはいても、同じような付き合い方ができているわけではない。これまで手に入れてもほとんど乗らないで手放したものもあれば、あなり手を入れて世話を焼いたが手放すときにそれほど感慨があったわけでもないものもあった。それらのオートバイたちと、いまも乗り続けているSRとの違いはなんなのだろう。どうも言葉にできそうにない。

ガレージや自宅の周辺に、ずっと放置されているオートバイが何台かある。もう数年動かされていないものだ。オーナーが他界してしまっているなら仕方がないが、タイヤもつぶれて動けなくなっているオートバイを見ると、やはりオートバイは走ってなんぼのものであり、また走らせる人がいてなんぼのものだなとつくづく思う。人にとってもオートバイにとってもお互い命を預けあっているわけだから、「ちゃんとした付き合い」ができなくなったらそれは危険なことなのだ。主体が人にある「わたしのオートバイ」という考えと同時に、オートバイに主体を置いた「わたしのオーナー」という考えもあるとするなら、そのオートバイが不遇な思いを抱いたまま朽ち果てていくことになるオーナーにだけはなりたくない。それはオーナーであってもライダーではない。

どうもとりとめのないことしか思いつかない。

投稿者 uga : 02:16 | コメント (10)

2007年08月18日

恵那で高速を降りた。この先の恵那山トンネルは開通後間もなく初めて通ったときから印象が良くなかった。今回は急ぐ旅でもないのでこの隧道を避けようと考えたのである。降りたついでと、まだ走ったことのない天竜川沿いに向かった。平谷村、売木村を経て天竜村へ着く。そこから国道を避け、天竜川沿いの県道をひたすら北へと上る。
話にだけ聞いていた伊那谷は、まさに山と谷が延々と続く中に、ところどころ急な斜面を耕した幾段もの田が見事な景色を描いていた。水はどこから引いているのだろう。美しく見える風景にも数々の悶着が歴史として刻まれているはずだ。悲しむべきことに土地にまつわる人々の争いはここに限ったことではなく昔も今も変わらず続いているものに違いないが、左右に見渡すことができる平地がわずかに限られているからか、谷間の空気は密度が高いように感じてしまう。あまりにも高くそびえる山々が、人が暮らしていける空間を圧迫しているように思えるのである。山を故郷と思えない里人の偏見なのだろうが。

飯田に立ち寄り散歩する。
独特の地形が基調となるその街並みは、かつてないほどの酷暑のせいもありじっとりと凝固した空気に包まれていた。西に傾いた陽が木曽山脈や恵那山のせいで思いの外早く陰ってしまうからだろうか、前日に歩いた近江八幡の街並みも似たような時代の建物が多く立ち並ぶのに妙にあっけらかんとして、同じ時刻でも明るく気分が楽だったのとは対照的だ。その差はどうも街の経済による違いとは思えない。

飯田を後にし天竜川を遡上する。伊那で東に折れ高遠から茅野に向かうつもりが、折から出てきた雲と沈みかけた陽のせいか道を間違え、高遠より南に向かってしまった。日が暮れてから知らない山道、しかも車の交通がまったくないに等しいところを走り続けるのは一刻も早く終わりにしたかった。ガソリンがリザーブに入っていたのも気を急かす一因であった。何も見えないバックミラーを何度も覗きながらかろうじて駒ヶ根まで辿りついたとき、深い山にはまだ物の怪が生きているのかもしれないと本気で思った。

投稿者 uga : 01:10 | コメント (3)

2006年05月06日

やっぱ数だよな

連休中ふと目にした日本海海戦に関する記事にあった「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に優る」との言葉がどうも納得できず、机上の計算をしてみたところ、双方が仮に100対1の数で対峙し(もちろん百発一中の砲が100門とする)一斉に全砲門を開いたとき、百発百中のたった一門の砲は初回の砲撃戦で撃破され、瞬く間に壊滅することがわかった。というかだな、小学生でもわかるだろそれくらい。なんでこんな精神論がまかり通ったのか不思議でならない。

それでは百発百中の砲はどのくらい数を揃えれば百発一中の砲100門に対抗できるか?計算してみたところ、10門あれば24回目の砲撃戦で100門の砲を壊滅させることが可能とわかった。そのとき残っている百発百中の砲は2門である。
だが、命中率100%の砲であっても9門しかなければ、命中率1%の砲100門に対しては18回目の砲撃戦で壊滅させられてしまうのである。殲滅戦において勝敗の分け目はそこにあった。
(いずれも命中率1%の側は発射100発に達した時点で1発命中として計算)

百発百中という命中率は現実に不可能である。では少しだけ現実的に考えたとして、兵の錬度を上げ10%の命中率(それでも現実離れしてるのだが)を獲得したとすればどうか?「百発十中の砲」などと言っては東郷元帥の精神論には程遠いが、まぁ机上の計算だからいいか。
まず先ほどの例と同じ10門あった場合だが、命中率10%の砲が10門あっても、命中率1%の砲100門にはまったく歯が立たない。12回目の砲撃戦で壊滅させられ、そのとき残る相手の砲はなんと94門である。
では50門あればどうなるか?14回目の砲撃戦が終わったとき、50門の側は41門残り戦闘における勝利が見えてくるのに対し、100門の側は40門の残りとなって形勢はその後急速に悪化する。
※ではここで問題。命中率10%の砲が勝利するために必要な最低限の数はいくつか?

砲の破壊力や連射性能、戦闘における人員・物資・弾薬補給の問題をひとまず置いたとしても、兵の錬度や兵器の性能を上げることで勝利を目指す場合にもやはり一定の「数」は必要であるという自明のことがわかっただけだった。
(数学に弱いので上記の計算は式を作らず(作れず)手書きの表でわかったことだ。だれか計算式つくれる人はいないだろうか?)

連休っていいなぁ。

投稿者 uga : 13:14 | コメント (8)

2006年05月05日

二十四年目

新車で手に入れて二十四年目を迎えたSR。連休中一度くらいは火を入れようと引っ張り出して都内をふらふらしてみた。
ローギアで80km/h近くまでひっぱれば、そこらまではスーパースポーツの600ccくらいならリードできるようで、まだまだ現役続行可能な様子。なんちゃって初期型400仕様なのでロートルだと思われるのがつけ入る隙なのかもしれない。実際ロートルなんだけど(汗)

南千住のあたりの風景が変わっていると聞き、訪ねてみた。
荒川区側はいまも再開発が進み、十数年前とは風景どころか区画がまるごと変わってしまっている。高田家の屋敷があった南千住八丁目、汐入のあたりは胡録神社を残して外は十数年前の面影など微塵もなくなっていた。隅田川の大きく曲がる川筋はいまもそのままだが、名物だったカミソリ堤防も今はない。少なくとも十数年前まで、ここらは路地と民家が入り組んだ独特の雰囲気をもつ街だった。往来には人もたくさんいて風呂屋もにぎやかだった。古びたバイク屋にはなぜかCBのK1やカワサキの3気筒が並んでいたが、それがちっとも違和感のないいい感じを醸していた。

国鉄の隅田川駅も貨車の姿はほとんど見えない。
やがては今日見えたEF65-1001も消え、似たようなビルが林立するようになるのだろうか?

投稿者 uga : 21:28 | コメント (1)

2006年04月19日

休日

四月十七日(月)
数ヶ月ぶりにSRに乗る。所沢の父の墓へ。この一年、SRに乗るといえば墓参りしか思いつかず熟年街道まっしぐらである。半時ほど佇んだ後実家に寄るが無人だったので近所をSRで巡り、卒業した中学校の校庭に今も咲く八重桜を眺めながら一服した。校舎は卒業当時と変わっていなかったが、クラブ活動をしていた生徒に尋ねると自分がいたころは学年で九クラスあったのが今は五クラスだそうだ。中学校は玉川上水に面している。玉川上水は小金井のあたりの土手の桜が有名で、幼いころはそれほど感じていなかったその美しさがこの歳になると妙にありがたいものに思え、なかなか立ち去り難い。

写真は帰り道に立ち寄った「でんえん」(以前の日記になにか書いた)

投稿者 uga : 23:35 | コメント (6)

2006年04月08日

昔話

 もう四年も前のこと、夏に雑司が谷のそば屋でご主人と話していたところ、その店のご主人はわたしが以前行ったことのある諏訪のそば屋と近しい間柄で、彼のところは水がいいのでそれがなによりうらやましいと仰る。それを聞きふと思い立ってそばを辿って旅がしたくなり、XS650splに跨り諏訪を再訪した。諏訪の店は繁盛しているようで休日だと慌しい雰囲気だが、平日の午後だったのでのんびり一杯やりながらそばを楽しめた。
 そこで旅の目的を話し「ご主人が気になるそば屋というのはどんなところですか」と尋ねると、「知り合いというわけではないが」と奈良にあるそば屋を紹介してくれた。すぐ東京に帰るつもりはなかったので、そのまま乗鞍を回って奈良に向かった。
 東大寺に近いそのそば屋は古い一軒家をそのまま店にしたもので、予約をしないと入れないほど流行っているところだった。小さなざるに盛られたそばは上品なものだったと覚えている。そこでも食後、非礼を詫びつつご主人に「ここは、というそば屋はありますか」と尋ねたところ京都の東山三条にほど近い新進のそば屋を紹介され、翌日訪ねた。
 京都のそば屋はカウンターだけのバーのような雰囲気で、まず塩で食えと指示があるような店だった。まだ新そばの季節ではなかったせいかあまり感慨もなく、なんとなく興ざめしてそば繋がりの旅はそこで終わった。そば屋のご主人が気になるそばというのを辿ってみると、どんどんそば自体が厳選され研がれていくけれども、その反面身近にある親しみやすさに欠けて行くような気がした。
 お気に入りのそば屋は歩いていけるところにあるのがいいと今では思っている。

投稿者 uga : 12:21 | コメント (8)

2005年12月05日

051205 品川宿

雲がなかった。
鮫洲で免許の更新をしたついでに、旧東海道を下り泉岳寺まで歩く。

 品川宿は目黒川を境に南北に分かれる。現在の品川駅は港区のはずれにあり、品川の宿からみれば北のはずれもいいところで宿場とはまったく別の土地にあたる。品川駅の南側に北品川があるのは妙な感じもするが、鉄道の品川駅が新参なのだから仕方がない。

 品川宿あたりの旧東海道をたどれば百年前の一級国道はこの道幅だったのかとよくわかる景色が続く。さすがに明治期の建物はほとんど残っていないが、そこここに残る道祖神や馬頭観音が往時を偲ばせる。品川寺(ほんせんじ)のイチョウは六百年の樹齢だそうだが、本当だとすると品川の宿場が整備される前からそびえていることになる。今も梢から銀杏を降らせているのは見事というほかない。

 江戸へ向け下っていくと、道の左手には数え切れないほどの寺社が並ぶのに対し、右手にそれらは皆目見当たらず、路地を数軒入った先にはいかにも古いといった風情の建物はない。それもそのはず、このあたりの東海道は元もと海岸に沿うように走っており、なるほどよく見ると路地裏にはとぎれとぎれに元は海岸だったのであろう名残の石垣が残っている。現在の海岸は近いところでも1キロは東にある。

 その名も「臨海山 法禅寺」は北品川宿にある寺だが、境内にある塚は天保の飢饉で農村を離れた窮民が江戸に流入しようとするも品川宿で多数行き倒れたため、その人々を葬ったもの。その折品川の宿で果てた人の数は九百近いという。仮に江戸市中までたどり着いたとて、その後暮らしていくことができたかはわからぬ。が、残すところ日本橋までわずかに二里。ここはまだ江戸ではない。塚の周囲に無念の気か、えもいわれぬ雰囲気がいまだ漂う。

 現在の国道15号・第一京浜と旧道が交わるところが八ツ山橋。橋からは下に山手線や東海道本線をはじめとする各線の行き交うのが見え、目を上ぐれば台車に赤錆の浮いた京急電車が眼前を過ぎる。鉄道好きにはさぞやたまらない場所だろう。そこで旧東海道は面影を消す。現在の品川駅は十年ほど前まで東口にあった瓦葺の駅舎が消えてから、なんの変哲もない駅となってしまった。

投稿者 uga : 23:49 | コメント (11)

2005年06月15日

050614 神田川

 昼前に目覚めたのを幸いにゆっくり雑事を片付け、このところ無沙汰していた散歩に出かけたのは陽も幾分傾いた頃。たまたま見えた淀橋を基点に川を遡ってみた。山手通りに出る前に早速手すりにもたれて一服していると、足元をスズメが跳ね回っている。近頃スズメをよく見るようになった気がするのは東京都のカラス対策が進んだということなのだろうか?

 とりあえず善福寺川と合わさるあたりまで歩くかと決める。山手通りを過ぎてしばらくの月見橋から見えるのは月ならぬ新宿の高層ビル街。どちらが趣きあるかは言を待たない。散歩中の白柴としばらく遊ぶ。

 (月見橋から東を望む)

 川が中野通りをくぐって少し行ったところが富士見町。大きな通りの近くを除けば概して閑寂なものだ。富士見町を過ぎ、しばらく行くと右手から流れ込む善福寺川を渡る「わだひろはし」。

 (橋の上から。右手に見えるのが神田川)

 ここまで来てふと気づいたのは、川沿いを歩くということは即ち地形的にはその辺りの最も低いところを歩いていることになるわけで、なるほど左右のあちこちには上りばかりの段丘や坂が見える。これが百年前ならどんな景色だったろうと妄想が始まる。富士見町というからには以前はそこから富岳が望めたのであろうことを思えば、さぞや一面畑や雑木林が広がるところだったのか。明らかに「江戸」や「東京」ではなかったろう。だがいまやそんな景色を想像するのも困難だ。周囲の草木は行政が植えたようなものばかりで整然としている。

 環七を渡って初めて川に洲が見えた。セキレイが尾を上下させながら歩き回り、立ち止まってはじっと水の中を覗き込んでいる。このあたりから少しずつあたりの土地の使われ方に余裕が感じられるようになり、小さな公園や林もところどころに見えるようになる。井の頭線の鉄橋をくぐる永福のあたりになると、ようやく農村の面影が残る景色に。昨日今日植えられたものではない木々が茂り、竹林なども鬱蒼としているところさえある。ここまで来ると陽がとっぷりと沈んだのもあり、さすがに歩いた気がして、下高井戸の書店で立ち読みを始めるころには足にだるさがやってきた。もう歩いて帰る気はすっかり失せてしまった。もう少し時間が早ければそこから世田谷線の軌道に誘われていたかもしれないし、あるいは川沿いに歩き気がつけば井の頭公園にいたかもしれない。

 散歩に出かけるのに計画はいらない。後のことを考えていては散歩はつまらない。

投稿者 uga : 03:32 | コメント (3)

2005年05月03日

050502 西新宿八丁目

 このごろの休日の習慣は、夕方ガレージから新宿までふらふらと歩いて行き、西口の蕎麦屋で焼酎を一杯やって帰るというものなのだが、短い散歩であっても独特の風景が沢山見つかるのが西新宿八丁目あたりの面白いところで、同じ道筋を何度歩いてもその都度変わった光景が眼に入る。
 青梅街道を隔てた向こうは高層ビルが幾重にも重なり、定規で引いたような鉛直線が空を区切っているのに比べ、街道の北側は一歩入ると築五十年ほどの傾きそうなアパートや住宅がひしめき、神社や墓地が泰然とそこに構えている。そのコントラストは判り易すぎるくらいだ。

 古い木造アパートを見る度に必ず思い出すのが昔の自分である。
 高校を行くあてもないまま卒業することになり、親の世話になるのが嫌なものだから奨学金で予備校に通うという名目で住み込みの新聞配達をすることにして、そこであてがわれたのが花小金井に程近い住宅街にあるアパートの一室だった。部屋は四畳半で北側にあり、一日中陽がさすことはなかった。
 何しろ十八歳という、剥き出しの神経を外気に晒しているような年頃だったから、その頃感じていたことをいちいち思い出していては真っ当な生活など望むべくもないほど、世の中のこと一つ一つに疑問と反感を覚えていた。美辞麗句を並べる大新聞の、企業としての末端がどんな実態なのかもよくわかった。そんなときを過ごしたのが、当時すでに傾きかけていた木造アパート「さつき荘」の一室だったのである。あたりは昭和三十年代にできた住宅や野菜畑が点在する風景だったのでまだ長閑ともいえたが、もし十八歳の自分が西新宿の今眼にしているアパートに暮らしていたら、たぶんもっともっと傷つき悩んでいたに違いない。

 自分にとって散歩とは外気に触れながら妄想することともいえる。部屋に閉じ篭って閉ざされた空気の中で妄想するほど不健康なことはない。健康志向などクソクラエだが、時に行き詰る妄想は人の命を根本から危険にさらすのでできれば避けたいものだ。肌を外気に晒して空気がモノであることを感じながら走るオートバイの疾走感を知ったことが、当時の自分を救ってくれたといっても過言ではないだろう。本気でオートバイを走らそうとすると、走ること以外になにも考えられなくなるのが快感だった。僕はそうしてオートバイに夢中になり、助けられた。

 西新宿のカビ臭そうなアパート街を抜け、ひょいと街道を渡って高層ビル街を歩き、焼酎と蕎麦でささやかな幸せを感じられるようになるまで二十五年かかった。これを堕落と呼ぶのか、大人になったというのか、自分は知らないが。

投稿者 uga : 01:45 | コメント (4)

2005年03月20日

050319

便を辞めて1ヶ月、すっかりガレージにヒキコモリである(便といっても排泄ではなく配達のこと)。この1ヶ月で一番遠出したのが昨日の練馬陸事なのだから、仕事でなければこんなにバイクに乗らない人だったのかと改めて思うことしきり。

自分のSRを10回目の車検に通した(丸22年なんで新車のときは登録)。フロントのアクスルに割りピンが入ってないのを忘れていって指摘された以外はいつも走ってるままでスンナリ通った。歳をとるほど2年が早いので、あれこれいじってまた元に戻すなんてもう考えられない。手抜きでも車検に通る状態にしておくのがいい。
帰ってきて外に停めておいたら午後の雨でドロドロの水滴模様になってしまった。あとでそれは空中の花粉が雨に混ざったものだと知って恐れおののいたが、放置するわけにもいかずそっと水拭きした。自分の齢のちょうど半分を一緒に過ごしてきたことになるSRが次の車検をつつがなく通せるようにと心に思った。

投稿者 uga : 02:15 | コメント (9)

2005年03月10日

050310

忌まわしい東京大空襲からちょうど60年目となる今日、新しくサイトを立ち上げることにした(空襲とは無関係に)。
関係ないといえばわたしの好きな瀧本瞳さんの誕生日は10月16日だが、その日はマリーアントワネットが処刑された日なんだそうだ。しかもギロチンに仰向けに寝かされて。

新しいホームページはまだ製作中だが、まずTOPにおく写真はこれにした。
(撮影してくださったのはSRダンディの富永さんのお連れ合いであるマダム)

投稿者 uga : 19:54 | コメント (5)

2005年02月16日

050216 退役

ついさっき、「4:30」「4:45」「5:00」にセットされていた携帯のアラームを2年4ヶ月ぶりに解除した。15日付でこの間続けていた配達のアルバイトを辞めたからだ。

その職場の同僚には10年以上この仕事(バイク便)をやってきた強者もいた。わたし以外の日雇いは誰もが経験豊富なベテランばかりだった。都内の道はおろかビルの名前や入り口の仕組みまで熟知した歴戦の勇士たちだった。そんな彼らより後から始めて先に去っていくのは、さながら前線に補充されてきたロートルが戦場の厳しさをロクに味わわないうちに後方に送り返されていくような後ろめたささえ感じることだ。というのも、50人もいない職場から毎朝出発していくライダーたちのうち、年に何人もが入院するような事故に遭い、なかには命を落としていく人もいるからだ。冬の雨や雪も関係なく毎日走る彼らは、見えない敵に対峙する戦友だったとさえ思える。

短い期間だったが、戦績は次のとおり
出撃:600回強
被弾:4回(うち救急車乗車2回・入院なし)
走行距離:6万キロ
バイク便業界では希なほどヌルい配達業務は朝6時始業、荷物の仕分けをした後60kmほどのコースを4時間かけて回り、40〜50軒の店に荷物を届けるという単純作業だった。昼過ぎには仕事が終わっているので、そのあとGARAGEへ行って午後の仕事をするのがこの2ヶ月ほどの日課であったが、どうにもネをあげないわけにはいかなくなってきた。GARAGEの仕事が思っていたより忙しくなってきたのだ。

わずか2年4ヶ月。短いようだが初めて経験することがいくつもあったし、性にも合っていた仕事だった。この仕事をしていなければまず立ち入ることのない街や建物に入っていくときはある種の刺激もあった。無縁の世界を垣間見るわくわくするような気にさえさせてもらえた。それと秤にかければ、逃げ場のない夏の暑さや冬の冷たさも苦労というほどではなかった。むしろ不快だったのは発注元や配達先の人を人とも思わない態度だったが、そんなものは世間では珍しいことではない。ふざけた態度をとっていた配達先に今度は客の顔をしてフラリと立ち寄ってやろうかと思ったりもするが、そんなことしたって相手はなにも感じ取らないだろうからやめておく。底辺の仕事をしていると、人そのものが見えることも多かった。
(書ききれないので明日以降につづく)

投稿者 uga : 01:03 | コメント (12)

2005年01月01日

041231

大晦日の配達は雪を覚悟しろと天気予報が言っていた。そのつもりで朝出たが、日の出からしばらくは青空が見えるほど。すっかり安心して都内の空いた道をのんびり走っていたのだが、ちょうど配達が終わって帰路についたとき、空から雪が舞ってきた。
今日ぐらいはふだんしないことをしようと思っていたのだが、オートバイで出かけるのはムリになりそうだったので、近所でケーキを6個買ってきて食べた。あとマロングラッセを6個。ウチでいれたコーヒーも6杯だった。

投稿者 uga : 01:19 | コメント (7)

2004年10月10日

041010

 わたしの最も敬愛する人が歌うコンサートを聴きに府中へ行く。
 その帰り途、霧雨の中、昔を懐かしもうと府中駅前をうろついた。高校時代毎日のように仲間とたむろしていた喫茶店を訪ねてみたくなり歩いていくと、そこは店どころか「丁目」まるごと消え去り一店のデパートと化していた。二十数年ぶりだったから無理もないことなのか。とくに感慨もないまま国分寺行きのバスに乗る。
 着いた国分寺も府中と同様だった。どこかで一杯ひっかけずには済まない気分になってぶらぶらしているうち、気がつくとこれもまたなつかしい喫茶店の前を通ろうとしていた。北口からわずかのところにある名曲喫茶「でんえん」である。
 世の中のことを何も知らず、ポケットに百円玉が数個あるだけの高校生が半日過ごしても文句を言われるどころか、初老の店主はクラシックの名盤について言葉少なに手ほどきしてくれた。セブンスター一箱とコーヒー一杯分のカネがあれば、カネで買えないいろんなものを授けてくれたのがこの店だった。
 果たして今日、当時とほとんど変わらぬ姿でその店はそこにあった。店主は二十年以上前に他界してしまったが、そのお連れあいが続けてくれている店は、調度も雰囲気も当時のままだった。懐かしさだけではない居心地の良さに、気がつくと閉店時間を過ぎてもぼうっと座っていた。
 当時容易にはLP版を買えなかった高校生は、家ではLL学習用カセットレコーダのたった一つのスピーカが鳴らす交響曲を聴いて脳みそをぐりぐりかき回され、涙と鼻水の垂れるまま放心するのが快感であった。そういう音楽の聴き方を初めて知ったのが「でんえん」の店内である。「オーディオに倍の金をかけたって音や音楽は倍良くなるわけじゃない」。
「主人がこの店を残してくれてよかった」と語る夫人のことばはずっしりと重い。自分にとって記念碑的な場がいまも変わらずそこにあることを感謝したが、夫人の話ではあと数年続くかどうか、とのこと。
 店を出て裏道を歩くと、再開発予定であろう空き地からエンマコオロギカネタタキの音が聞こえた。
 得難い、耳への贈り物を次々といただいた一日だった。

投稿者 uga : 23:44 | コメント (7)

2004年09月17日

040917

 昨日の交通事故の治療のため行った東京女子医大から、ふと思い立ってガレージまで足をひきずりながら歩いて帰った。途中に漱石の生家や終の棲家のあった地があり、雑司ヶ谷の墓と共にたびたび訪れているのだが、今日も急に立ち寄ってみたくなったのだ。
 漱石の作品は好きだが別に漱石という人を愛してるわけではない。会った事もない人を愛せるほど器用な人間ではないし、作品を敬愛しているからといって作家という人物まで好きになるかといえば、それはまったく別のことだ。
 雑司ヶ谷の墓は以前住んでいたところの生活圏にあり、墓参とまではいかないがそれこそ日常的に訪れていた。墓石はとても漱石自身が望んで建てさせたものとは思えぬ形をしており、すぐそばにある竹久夢二の墓とは対照的ともいえる姿を見せている。漱石も夢二も五十歳(数え年か?)で没しているが、共に自らの墓のことまで考えていたとは想像し難い年齢である。
 雑司ヶ谷霊園は知人を案内することも何度かあったほど好きでよく歩いたところだ。小泉八雲や永井荷風といった私の好きな作家の墓もいくつかあった。荷風といえば三ノ輪の浄閑寺が十年ほど前に建て替えられ、以前の雰囲気が失われてしまったことを思い出す。彼はそこに自身の墓が建てられることを望んだが、彼の没後家族の反対があってそれは実現しなかったと聞いた。新吉原の無縁の遊女たちと並んで、陽当たりのよくない境内に墓が建てられるのは彼自身が望んだことであったのだが。
 印象的な墓といえば、京都に暮らしたころ下宿のそばにあった谷崎潤一郎の墓もそのひとつ。自然石に「寂」とだけ彫られたそれは、まだ若かった私には却って派手に見えた。
 どういう理由かは自分でもわからないが、十代の早い頃から墓地や霊園を歩くのが好きであった。好きというよりも、散歩していて気づくとそうしたところに佇む自分がいた。なのに自分の墓がどうなろうと自分の知ったことではないと日頃思っているのは、実は道理にかなっていることなのである。

七月、父の墓にルドベキア・プレーリーサンという名の菊を植えた

投稿者 uga : 22:26 | コメント (1)

2004年05月06日

040505 XSの足回り変更

何年かぶりに、オートバイに乗ることを目的としてXSで夜中の街を走った。お台場から見る品川の高層ビル群が大きな壁のようだった。

昨日フォークオイルをYOHさんご推薦のものに換え油面を上げ、同時に入れていた4mmほどのスペーサを取り去ったので、その試走だった。
今回はFブレーキローターも同径だが違うものに換えたので、ブレーキの利き具合も試してみたかった。
以前の仕様は以下のとおり
○フォークオイル=YAMAHA♯10、油面メーカー指定値(油面約200mm)
○スプリング=プログレッシブXS650spl用+塩ビ製スペーサ(4mm)
○ブレーキローター=SR用298mm(5mm厚)約2280g
変更後の仕様は以下
○フォークオイル=ABSO-R、油面160mm
○スプリング=同上、スペーサなし
○ブレーキローター=XV400用298mm(5mm厚)約1900g←XSマニアのsoulucgさん寄贈(感謝)
ちなみにリアサスはずっとノーマルである。

SANY0013s.jpg

↑XV400用ローターとABSO-Rを入れたフォーク(もちろんオイルは見えない)

油面の大幅な上げは実験のつもりだったのだが、同時にイニシャルを下げたせいだろう、初期の沈み込みは大きい(動き始めは柔らかい)。停止状態の車体を垂直にしただけで全ストローク量の2/5ほど沈み込んだサスがカチっと動かない。
まず外苑東通りの青山S字を80km/hほどで探りながら曲がってみると、すっと沈み込んだサスがそのまま落ち着いているのがわかる。重心が低くなった状態で安定していてこれはとってもラクチンだ。
これならもう少し速度域を上げてもいいかもしれないと思い、レインボーブリッジに向かう。
お台場に向かう登りのコースターに90km/hほどで入ると、以前と比べて浅いバンク角ですーっと旋回していく。フォークが沈み込んだ位置で安定しているせいだろうか、旋回力が強まっている感じだ。
90度曲がるコーナーなどでも同じ感じがする。
帰りの下りコースターでは100km/hでも安定度はぐっと増した。

以前ならどんなにリア荷重を心がけても車体全体のフワついた感じが否めなかったが、それはリアサスのせいだとばかり思っていた。
最近いろいろ試してみる中で、フロントを安定させればリアの挙動もそれに連動するように落ち着くことがあり、おまけに旋回力も増してラクに曲がれる。それをXSでも試してみたかったのが今回の実験の動機だった。
奇しくも最初に試した仕様で思った以上の効果が出ていることがわかったのは大きな収穫だった。
ただ、路面が荒れた明治通りを走ってみたところ70km/hくらいまでの低速域の乗り心地という点では以前よりゴツゴツ感が増したので、もうほんの少しだけ油面を下げてもいいかもしれない。
いずれにせよ試しにスペーサを取り去ったことも好結果に結びついているように思う。スペーサをはずしたのにむしろフルボトムしなくなった。

油面を160mmにした根拠は
○初期型SRと同じ構成(スプリングが違うだけでオリフィスの開いたシリンダーも同一)のXS用フォークなので、WPのSR用指定油面150mmまでは上げても大丈夫だと判断した
○フォークオイルが初めて試す物だったため多めから始めて徐々に抜いて行くのがラク(横着するならフォークの下からでも抜ける)

40km、1時間あまり走ったが、思ったより寒くてすっかり凍えてしまった。
ブレーキの変更についてはまた改めて。

投稿者 uga : 02:58 | コメント (3)

2004年03月19日

040319

北の丸公園を少し歩いた。桜が開き始めている。
千代田区公会堂の横手にある清水門から入り、石垣沿いに歩いて武道館横の田安門を出て旧軍人会館(現在九段会館と称する)の前を歩く。たったこれだけなのに初めて見るものがいくつもあった。
田安門の門扉の蝶番に「嘉永十三○○ 九月吉日」と刻印されているのを見つける。嘉永って十三年もあったか?(見間違いかもしれない)どちらにせよ150年ほど昔のもの、当時は頻繁に開閉されていたのかもしれないが、もう何年開け閉てされていないことだろう。CRCやラスペネを噴いたくらいでは動きが良くなりそうもない。ちょうど舎密(せいみ=ケミカル)という言葉がつくられた当時、金属同志の摩擦を低減させるグリスにあたるものは何が使用されていたのだろうか。無性に現代のケミカルでメンテナンスしたくなる。

投稿者 uga : 17:29 | コメント (1)

2004年02月19日

040219

上野での所用が早く片づいたので、歩いて早稲田まで帰る。
池之端、本郷、春日、小石川、富坂、と裏道を縫うように歩いているうちに日が暮れた。4時間ほど歩いたので距離にすれば10km強といったところだろうか。
このあたりは起伏に富んだ地形が見せる変化のある風景が続く。坂や階段のある街はどうしてこうも魅力的なのか。
小石川の裏路地、日本茶を売る店の前で煙草をふかしながら空を見上げていた老人から界隈の昔の話を聞く。
目の前のそう古くは見えない石垣が戦前からのものだとか、崖の上は数軒のお屋敷しかなく広い庭が広がっていたとか、今見える風景からは想像もつかない賑わいがあったとか、空襲で全部焼けて水道橋から共同印刷が見えたとか。82歳、この街に生まれて店は彼で二代目だという。

灯ともし時、住宅と小さな印刷工場が建ち並ぶ路地で、仕事を終えたのであろう30代の男性がSRの傍らでグローブをはめていた。慣れた仕草でキックアームを出し、男性は軽いキック一発でSRの目を覚まさせる。短く軽いブリッピングをすると、軽やかで歯切れの良いノーマルのエキゾーストを響かせ彼と彼のSRは目の前の細くなだらかな坂をゆっくりと登っていった。遠ざかるルーカスのテールが温味のある灯り見えた。

投稿者 uga : 20:47 | コメント (3)

2004年02月03日

040203

サイフを落とした。
朝7時台に落として、ないのに気づいたのが昼。携帯にK察から電話が入っていたのに気づいて折り返し電話する。届けられていたことにまず一安心。早速引き取りに行くと、なに一つ失われず丸々届けられていた。免許証からすべてのカード類まで入っていたのでなくしていたらピンチだった。拾ってくれた人は謝礼も連絡もいらないとのこと。それを聞いて昔自分が拾ったサイフを届けて謝礼を期待していたことを思い出した(小学6年くらい)。いい人に拾われて助かった。今度拾ったら迷わず匿名で届けようと思った。こういう連鎖は大切にしなくちゃ。

投稿者 uga : 23:52 | コメント (3)

2004年01月17日

040117 雪

昼前から雪が降るという予報だったので、朝7時半発の配達の仕事を2倍速で片づけることにした。品川区、大田区、目黒区の一部を回るルート便で通常は50件弱の店を回るのだが、今日はラッキーなことに36件と異例の少なさ。普段4時間以上かかるところを3時間で終わらせた。
9時半ごろからチラチラ降ってきていたので「しめしめ、本降りになる前に終わったわい」とニンマリ。しかし…夕方になっても降らないじゃん! というか、晴れてるし。
やっぱり天気予報ってエンタテイメント番組だったのね。(夜中になってやっと雨が…)

投稿者 uga : 23:57 | コメント (1)

2004年01月14日

040114 飲み屋

今日はひさしぶりに山谷へ。古なじみのおっさん二人と入った飲み屋がすごかった。
建物から調度、品書きやオヤヂまですべてナンジャタウンにありそうな博物館級の店。野田屋の立ち飲みがなくなったと聞いて山谷の立ち飲み風景も終わったかと寂しがってたところなので、この店の発見(知らなかっただけだって)は驚きと喜びでしたわ。
ぜひまた行きましょうね。<だれに言ってる?

投稿者 uga : 22:59 | コメント (0)

2004年01月13日

040113 2004年ということで

 ぃゃ、先日ウガレージに集まった人たちの話聞いてたら、みんな個人のサイトあるんだよね(except某坊)。で、数年前までの20年間にオートバイ乗ってたことでできた知り合いより、この数年でインターネットを通じて知り合ったオートバイ乗りの方がはるかに多いというのにあらためて気づいたわけ。
 ツーリング先で知り合って仲良くなる、なんてのは現実にはほとんどなかったし、そもそも走りに行くといえば昔から一人で黙々と走り続けるか、そうでなければ近所の(同じくヒマな)気の合った仲間とちょろっと行くくらいしかしてなかったから、未知の人と仲良くなるなんてことはまずなかったんだね。オートバイと出会い(コミュニケーション)はほぼ無関係だったわけだ。
あ、でもピースサイン(死語)とか雑誌の投稿ってのはあった。出会いってほどじゃないけど。
 で、唐突になぜ「日記」なのか?
「日記」にしたって人が読むことを前提にして書くとなると選ぶ言葉が違ってくるけど、日々やってることやその中で感じることを知ってもらうのも楽しいかな、と思い始めたわけ。そうすりゃインターネットもたんなる「きっかけ」だけで終わるんじゃなくて、そこから新しいことも始まるんじゃないかと。ま、現に始まってるというウワサも。このサイトだって去年知り合ったばかりのYOHさんがすっかりお世話してくれたんだ。
 そういうわけで、情報って代物じゃないあれこれを書いてみようかな、と。

投稿者 uga : 19:33 | コメント (2)

2003年09月11日

yohさんありがとお

なんかウレシーですとっても
HPもって人様にお知らせするほどのことがあるわけじゃないけど
毎日遊んでることを日記代わりに書くところがあれば楽しいかな
くらいに思っていたので
こーいう書くところができたので ちょっと遊ばせていただきます。
でもね、なんの役にも立たないよ(汗

投稿者 uga : 23:08 | コメント (16)

4年動いてなかったSRを回春させるにあたって

●ステムベアリング交換、ピボット分解清掃グリスアップ
●キャブOH、インシュレーター・エレメント交換

●チェーン・スプロケ交換、タペットアジャストボルト交換・調整、カムチェーン調整
●タイヤ前後交換、ハブクラッチ分解清掃・グリスアップ
●ワイヤー類全グリスアップ・調整
●オイル・フィルター交換、ガソリン入れ替え
●ブレーキドラム脱脂、シュー面出し
●バッテリー、プラグ交換
……なんか忘れてることあるような(汗

あ…あとフォークオイル交換とリアサス取り付け部グリスアップしたんだった

投稿者 yoh : 20:13 | コメント (0)

タイヤ交換の巻

宇賀「さて、SNRも終わったことだし、エンジン整備のついでにリア回りの整備とタイヤ交換といくか。さて…と、まずはタイヤ交換だな。飾っておいたAVONのワンサイズダウンといくか」

婆「あれま、お爺さんたら。こないだ『BT45はグリップも充分な上に安いし減らないし、いいタイヤだ』って言ってたばかりなのに」
宇「だれが爺じゃ! AVONはBT45の性能を十年以上前からもっていた優秀なタイヤだからな、まだラインナップがある間に履いておきたかったのよ」
 〜おもむろに作業開始
宇「む…さすがにチューブレスはビードがしっかりしてて落ち…にくい(爆滝汗」
婆「あらまあ、汗びっしょりじゃないの。ハァハァ言ってコーフンしてるのかしら?この人」
宇「なにを言う! タイヤ交換ごときはチューブタイプのオートバイに乗る者にとっては基本整備の一つじゃ! こんなことくらいできんでどーする! 昔はみんな自分でやったもんだ! 旅先でパンクでもしたらどうするつもりだ!」
婆「あら?お爺さんたら『わしのSRは20年で一度もパンクしたことない』って自慢してたじゃないの」
宇「十数年前にツーリング先で仲間のGBがパンクしたとき、わしゃ工具もっとらんかったんで山道パンクのまま走ってな。街に降りてから夜にビール飲んでたバイク屋にムリ言って直してもらってからは『自分でできなきゃ』って、心に決めたの! それくらいの心構えがなくてSRに乗れるか!」
婆「また…お爺さんたら『昔は』とか『本来』とか言い過ぎじゃない? そんなことばっかり言ってるからガレージに若い人来なくなるのよ。最近来るのはいい歳の人ばっかりじゃありませんか」
宇「ウルサイ! ノウハウは売っても媚びは売らず、だ!」
婆「売るって…お金とってないじゃないの」
宇「…」
 〜やっとタイヤはずれる
宇「さて…一休みすっか」
婆「え?20分もかかってタイヤはずしただけで、もう休憩?」
宇「腹が減ったの!急がば回れなの! さ、ラーメン食ってこよーっと」
婆「その邪魔な腹へこましてスタミナつけた方がいいと思うわ…」

投稿者 yoh : 20:12 | コメント (0)